夏の夜のことである。 友人宅に泊めてもらうことになった。 夕食のあと、2階の部屋に戻った私達は、布団に寝転がりながら会話を楽しんだ。 深夜の1時に達したところで、友人は寝落ちしてしまった。 彼女は普段は早寝であると言うから、限界が訪れたということだろう。 私は部屋の電灯を常夜灯に変えて、歯磨きをするために1階の洗面所へ向かった。 友人の家は和風建築の立派な建物である。 広い玄関を入ってすぐ目の前には階段がある。 その手前を右に曲がると長い廊下が続いており、洗面所はこの廊下の最奥に位置していた。 この友人の家には、よく遊びに来ていたから、電灯をつけずとも容易に洗面所へ辿り着くことができた。 私は洗面所の灯りをつけて歯磨きを始める。 うがいをして、部屋に帰ろうとしている矢先に、廊下から物音が聞こえてきた。 「…」 人の声だろうか。 家人の声だと思い、廊下に出て確認してみる。 洗面所から溢れる光にかろうじて照らされた廊下の奥は、ひっそりと暗がりになっている。 暗がりの中に、かすかに人影が見えた。 足元だけがはっきりと見えており、か細い裸足の脚部が確認できた。 「どなたですか?」 私はおそるおそる尋ねてみた。 「そっちに行ってもいいかな」 今度は内容をはっきりと聞き取ることができた。 女性の声だと思われる。 聞き取りづらい、くぐもった声である。 だが、聞いたことのない声だ。 訝しく思った私はさらに質問を続けた。 「誰ですか?」 「そっちに行ってもいいかな」 会話にはならない。 恐怖感を覚えた私は、低い声で返す。 「来ないでください」 「そっち行ってもいいかな」 恐怖が絶頂に達した私は、その場にうずくまり、下を向いてパニックになり怒鳴った。 「来ないでください!!」 「そっちに行ってもいいかな」 「そっちに行ってもいいかな」 「ソッチニイッテモイイカナ」 もうダメなのかもしれない。 そう思った矢先、廊下の電灯がパッとついた。 「どうしたの!?」 顔を上げると、そこには友人の姿があった。 泣きじゃくりながら、事の顛末を必死に伝えようとする私の姿をみて、友人も只事ではないと悟ってくれた。 その日は友人と同じ布団で寝た。 友人はそういった心霊的な現象を自宅で経験したことはないと語った。 あのとき、私が「来てもいい」といった旨の返事をしていたらどうなっていたことだろうか。 今でも廊下の暗がりを見ると思い出す。 か細い裸足と、くぐもった女の声を。